予告編が完成しました。本編完成まで後少し・・・
以下ベルギーのブリュセルにて「超自然の大地」の一部を上映させていただきました。震災2年目を機に開催されたイヴェントActfor Japanの上映を見た方からの感想をしたに紹介します。
1:私はカジノさんの映画を観て、福島で農業を続けたいって農家の方達の切なる想いにすっかり同調してしまいました。そして日本に帰りたい、なんてホームシックになったりもしています。 「自分たちが愛した土地が放射能なんかに汚染されてたまるか!」という農家の方達の気持ち、そして微生物でもなんでも「効く」とされているものはどんなことでも試して、自分たちが生きている間できる限りのことをして土を浄化させ、次の世代になるべく汚染のない土地を残して行きたいという気持ち、もう涙が止りませんでした。農家の方達ほど、この地球、自然、大地というものに敬意を払って生きてきた人たちはいないと思います。そして原子力エネルギーによって、その大地、自然、そして地球が汚されてしまったということ。。。
ブリュッセルでのディスカッションは、「どんなにがんばっても一度汚染された土地はもう蘇らない。チェルノブイリがそれを証明している」というものでした。私はその考えがどうしても飲み込めないでいます。それではあまりにも、カジノさんの映画に出てきた福島の農家の方達に申し分がたちません。なんとかあの農家の方達の想いの強さが奇跡となって、日本の土地を再生できないものか・・・なんて、科学的なことは全く無視したような思いばかりが強くなります。でも実際、日本の汚染は深刻なものです。 塗り替えられた内部被爆に対する国の規定、放射能セシウムで1キロあたり500ベクレルまでを認めている国のめちゃくちゃな判断。それが「異常」であること、「間違っている」と分かっていても、カジノさんの映画に出てきた農家のおじいちゃんのお米から500をかなり下回ったものが検出されたことに安堵を感じたり、でも、「40ベクレルでも検出されている。それが市場に出てしまっている」ということの重大さ、消費者や子供のたちがそれを口にするのが当たり前になってきてしまうことの重大さ、もう何が正しくて何が間違っているのやら。このめちゃくちゃな情報の中で、私は一体何を信じていきたいのか、何ができるのか・・・。こうして、一人一人の「信念」だけが世の基準となっていくことにもやるせなさを感じています。
是非カジノさんにもブリュッセルで映画を撮られたときのお話、想いなどを伝えに来て欲しいです。ベルギー人にも今の日本の現状を知ってもらい、これは日本だけの問題なのではなく、世界全体の問題であること、地球全体の未来にかかっている問題なのだと声を大にしていきたいです。「答え」ってないですよね。こうしてドキュメンタリー映画を観て自分たちが感じることを伝えていくしかない・・・ 映画という形で、世界にメッセージを伝えてくださって、本当にありがとうございます。
2:わたしは、福島地方の農業に関するドキュメンタリー映画「超自然の大地」(まだ製作完了していない)の上映会に出かけました。それは、原発の周りの立ち入り禁止のゾーンで、 家畜の群れを見放すことを拒否した飼育者たちではじまりました。そしてその地方の農業者たちが、事実上、販売出来ない有機米を育て続けています。
いくつかの興味深い議論がありました。その全ては、「しきい値」を中心に展開しています。何ベクレル、何シーベルト、生きて行くために、住むために、リスクのない食物とは、などなど。法的なしきい値は、全ての希望と、全ての闘争の再配分をし始めています。一方農民側では、消費することのできる米について考えています。というのは、それが有害とされるしきい値以下であったからです。
しきい値のアイデアを拒否する人たち、汚染地域の地方の生産物を買うことを拒否する人たち、東京電力を告発する(わたしたちはこちらを理解しやすい)農家を告発する人たち、、、などなど。すべては、しきい値の上に固定されています。たとえそれが検出されないとしても。反原発活動家は、農家の人たちを殺人者と非難しています。そして、まったく汚染されていない食品を必要としています。農民たちは、はそれを作ることはもはやできません。しきい値を下回っていることを示すことのみです。農民たちにとってもまた、それを計測する必要があります。反原発運動家として、犠牲者として、しかしまた、ひとつの解決策として計測します。興味深かったのは、農民たちが、土壌の洗浄に果たす役割、有機農法(地中の有機的生命と共に行う)と大量生産農業との違い 、何年かの内に、セシウムを集中的に吸収し取り除き、リスクのない、新しい栽培のための土地づくりについて考え始める時です。
当局は、明らかに、これらの議論にたいして盲目であり、汚染食品に対する、彼らの責任によって設定したしきい値しか見ていません。しかし、農民の、水を濾すための洗浄技術の開発は継続されます。
汚染された世界で生きるために。そして、農民たちは、そこで一緒に働き、しばしば、法的書類の前にして意見をはっきり言います。しかし、現在、彼らは共に考え共有することに、はるかに多くの興味を持っています。彼らは、彼らの通常の現実を修正されたものとして、抽象的な意味ではなく、景観について考え初めています。もちろん、ドキュメンタリーの最後に勝者はいません。ポスト福島の国に、正しい答えはありません。しかし、非常に知的なドキュメンタリーです。残念ながら、討論会には出席できませんでした。かしこ
ニコラ
Bonsoir,
je sors justement d’une projection de “uncanny terrains”, un documentaire (pas encore terminé) sur l’agriculture (bio) dans la région de fukushima. Ca commence par des éleveurs qui refusent d’abandonner leur troupeau dans la zone de protection autour de la centrale, et qui vont les nourrir en bravant l’interdiction d’entrer, et ça continue sur les agriculteurs qui continuent à faire pousser leur riz bio dans une région où il devient de facto invendable.Il y a quelques belles polémiques qui tournent justement toutes autour de ce “seuil”.Combien de Becquerel, combien de Sieverts, pour vivre, pour habiter, pour se nourrir sans risque, etc.Les seuils légaux se mettent à redistribuer tous les espoirs et toutes les luttes.D’un côté les agriculteurs qui pensent que leur riz peut être consommer, car il est sous le seuil de toxicité.De l’autre ceux qui refusent l’idée de seuil, et refusent d’acheter les produits en provenance de la zone, et dénoncent les agriculteurs… qui eux dénoncent (on les comprendra plus facilement) TEPCO, etc.Tous sont fixés sur les seuils, même si c’est pour dire qu’il n’y en a pas…Les activistes anti-nucléaires accusent les agriculteurs d’être des meurtriers,et exigent une alimentation pure, les agriculteurs ne peuvent plus produire du pur, et montrent qu’ils sont en grande partie en-dessous des seuils.Les agriculteurs exigent donc qu’on les considère comme anti-nucléaires, comme des victimes, mais aussi comme apportant des solutions positives à travers leur travail. Car là où ça devient intéressant, c’est quand les agriculteurs se mettent à réfléchir à leur rôle dans la dépollution des sols, à la différence entre agriculture bio (avec une vie organique dans le sol)et agriculture intensive sur l’absorption de césium, à que faire pousser pour que le sol puisse être à nouveau cultivé dans des années, sans risque.Les autorités sont bien entendu aveugles à ces arguments, et ne voient que le seuil, qui fixe aussi leurs responsabilité en cas de pollution alimentaire.Mais eux continuent à inventer des techniques pour dépolluer, pour filtrer l’eau, bref, vivre dans un monde impur.Et les agriculteurs se mettent alors à travailler ensemble, déclarent qu’ils se voyaient souvent avant pour régler les papiers, mais qu’ils sont maintenant beaucoup plus intéressés de se voir, pour vraiment échanger, penser ensemble, etc.Ils se mettent à repenser le paysage, non pas comme abstrait, mais comme ce qui a été toujours modifié par leur pratique.
cordialement,
NIcolas
















